259人の命が、スイスアルプスの夜空に宙吊りになった日――A340事件が教える、UPRTの真実

UPRT

皆さんこんにちは。吉川哲也です。

259名の命を乗せたA340が、スイスアルプスの夜空で失速寸前に陥った。救ったのはテクノロジーではなく、訓練だった。そして危機を招いたのも、訓練の欠如だった。この矛盾が、UPRTの本質を教えてくれる。

259人の命が、スイスアルプスの夜空に宙吊りになった日――A340事件が教える、UPRTの真実


その夜、機体は「死の境界線」を越えた

2018年11月6日夜。

ヨハネスブルクを離陸し、フランクフルトへ向かうサウスアフリカン航空SA260便。エアバスA340-600、機体記号ZS-SNF。搭乗者259名。

巡航高度FL380(約11,580m)。スイス・チューリッヒの南南東約74kmの上空。

その瞬間、機体は突然、設計上の限界速度を超えた。

航空機はウィンドコンバージェンスゾーン(風の収束帯)に入り、マッハ0.89という超過速度警告が発生した。機長はオートパイロットを切断し、速度を下げるために上昇を開始した。 Wikipedia

しかしここで、状況は急速に悪化する。

上昇により迎え角(アングルオブアタック)警告が作動した。乗務員はこれを機器の誤作動と誤認し、ADR(大気データ基準装置)のうち2基を無効化した。これにより自動スロットルと一部の保護機能が無効となり、機体はニアストール(失速寸前)の状態に入った。 Wikipedia

機長の急激な機首上げ操作、その後の上昇、フライトアイドル状態での低エンジン推力が重なり、急激な速度低下と失速警告の発動を引き起こした。機体はFL340(約10,360m)まで降下した後、ようやく回復した。 News24

259名の命を乗せたA340は、この夜、失速と墜落の「死の境界線」に限りなく近づいていた。


なぜ、こんなことが起きたのか

事故調査当局(ドイツBFU)の最終報告書は、容赦ない事実を突きつける。

①シミュレーターのソフトウェアが時代遅れだった

調査の結果、SAAの訓練シミュレーターは機体が実際に遭遇した特定の風の条件を正確に再現できていなかった。さらに、この訓練ギャップに対処できたはずの機体メーカーによる2006年のソフトウェアアップデートが未適用だった。 Airspace Africa

シミュレーターのフライトコントロールプライマリコンピューターはソフトウェアバージョンW6.3を使用していたが、実機はW10だった。二つの大きな違いは、オートパイロットが自動的に切断される対気速度の基準にあった。 News24

つまり乗務員は、実機とは異なる動作をするシミュレーターで訓練を受けていた。

②乗務員は正しい手順を実行できなかった

調査報告は乗務員の行動を厳しく批判した。チェックリストは遵守されず、パイロットたちはオーバースピードイベントの処理についての適切な訓練を受けていなかった。 Aviation24.be

③さらに衝撃的な事実が明らかになった

事案の調査過程で、上席副操縦士が航空会社で勤務しながら、実際には定期運送用操縦士(ATPL)ライセンスを保有していなかったことが発覚した。SAAは同パイロットに対し刑事詐欺告訴を行った。 Flight Global

これは単純な技術的失敗ではない。訓練体制の崩壊、資格管理の崩壊、そして組織の安全文化そのものの崩壊が、一度に露呈した事件だった。


しかし乗務員には「救い」があった

ここで重要なことがある。

259名は生きて帰った。

それはなぜか。

このウェビナーの主要発表者であるブラッド・ベネッツ機長は、SAAのUPRTプログラムマネージャーであり、乗務員が受けたUPRT訓練がAPSの「全姿勢異常姿勢回復戦略(AAURS)」の適用につながり、悲劇の瀬戸際にあった状況からの回復に成功したと説明した。 Apstraining

つまりこういうことだ。

シミュレーターのソフトウェアは古かった。チェックリストは守られなかった。手順の適用は誤っていた。それでも機体は回復した。なぜなら、乗務員の一部が**UPRTによって植え付けられた「本能レベルの回復行動」**を持っていたからだ。

訓練が命を救った。しかし訓練の欠陥が、その命を危機に晒した。

これがこの事件の、最も重要な教訓だ。


フライバイワイヤと「保護」の幻想

この事件がもう一つ突きつけるのは、現代の航空機が持つ「保護機能への過信」という問題だ。

AirbusのA340を含む第4世代フライバイワイヤ機には、飛行包囲線(フライトエンベロープ)を超えないための複数の保護機能が備わっている。失速防止保護、過速度保護、高迎え角保護……。

この保護システムを「万能の盾」と思ってはいないだろうか。

LOC-Iがどのように発生しようとも、ある角度以上のバンクや30度以上のピッチといったパラメーターを超えた場合、パイロットも教官も、その時間的制約のある生命を脅かす飛行領域での経験はほとんどない。そしてその効率的な回復操作はしばしば反直感的であり、訓練を受けていないパイロットは安全かつタイムリーに対応できない可能性がある。 Apstraining

SA260便の乗務員は、保護機能が作動しているはずの状況で、その保護を誤って無効化した。

テクノロジーは人間の判断を補助するが、人間の判断を代替することはできない。その判断が誤っていれば、テクノロジーは無力だ。


UPRTが「本物の訓練」でなければならない理由

この事件をAPSがウェビナーのテーマとして取り上げたことには、深い意図がある。

ウェビナーでは、圧倒的な「スタートル反応」と疲労が重なった乗務員が経験した心理的影響の重要性が議論された。また乗務員が受けていたUPRTプログラムが、いかに極限的条件下での回復に貢献したかも論じられた。 Apstraining

「スタートル(驚愕反応)」という言葉に注目したい。

予期せぬ状況に直面した瞬間、人間の脳は固まる。訓練によってその「固まり」を克服した乗務員と、できなかった乗務員の差が、この夜の259名の命を分けた。

そしてもう一つ。

実際の航空機での異常姿勢状況において、パイロットが訓練で培ったスキルを使って回復するケースは、私たちが気づいている以上に多く起きている。しかし失速や異常姿勢が起きたことは、決して表には出てこない。 Apstraining

見えていない「救い」が、世界中で今日も起きている。

そして見えていない「危機」も、今日も起きている。


日本のパイロットは、この夜に備えているか

SA260便のエピソードを読みながら、私は日本のコックピットを想像する。

スイスアルプスと同じ高度を飛ぶ、日本のエアラインの乗務員たち。山岳波に遭遇し、突然のオーバースピード警告に直面したとき、彼らは正しく対応できるか。

訓練しているか。本物の訓練を。

シミュレーターのソフトウェアは最新か。乗務員は手順を熟知しているか。そして何より、スタートルを克服する訓練を受けているか。

私はUPRT JAPANを作ろうとしている。

その理由の一つが、このA340の夜にある。

259名が生きて帰れたのは、訓練のおかげだった。しかし危機を招いたのも、訓練の欠如だった。

日本の空を飛ぶすべてのパイロットが、本物のUPRTを受けられる日を作りたい。その一点に向けて、11月のアリゾナへの渡航を準備している。

あの夜のスイスアルプスの教訓を、無駄にしてはならない。


参考:German BFU最終報告書(2023年7月)、APS Webinar「Airbus A340 Severe Overspeed and Stall Recovery」、Aviation Herald、News24、Aviation24.be

EP 29 | 259 Lives at Risk: High-Altitude Overspeed, Stall, and Recovery
South African Airways Flight SA260 was cruising over the Swiss Alps near FL390 after nearly ten hours of flight when mou...

 

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