三菱スペースジェット(旧MRJ)役目を終える

飛行機

皆さんこんにちは!

3月8日(アメリカ時間)に、三菱航空機の初号機JA21MJが解体されました。

試作機の内3号機はすでに解体されていましたが、日本の新しい航空機の象徴

だったMRJ(あえてこう呼びます)の初号機が無くなることは本当に残念です。

日本の航空機の光・スペースジェット

スペースジェット開発中止

三菱航空機の新しいリージョナルジェット、スペースジェットの開発中止が発表

されたのは、2023年2月の株主総会でした。

スペースジェットは、2008年3月27日に当時MRJ(三菱リージョナルジェット)

として、持株会社化前の全日本空輸(ANA)が最大25機を発注したことで事業化。

メーカー標準座席数が88席の「MRJ90」と、76席の「MRJ70」の2機種で構成し、

エンジンはいずれも低燃費や低騒音を特長としました。米プラット&ホイットニー

製のギヤード・ターボファン・エンジン(GTFエンジン)「PurePower PW1200G」

を採用しました。

当初の納期は2013年でしたが、その後2014年4-6月期、2015年度の半ば以降、

2017年4-6月期、2018年中ごろ、2020年半ばと延期を重ね、2020年2月6日には

6度目の延期が発表されて「2021年度以降」とされました。一方、発注している航空

会社からは「“以降”だから、100年後でも納期遅れではないと言い張れる」といった

諦めに近い言葉も聞かれたくらいです。

その後、2021年1月8日には、開発を中断して初の発注キャンセルが発生したと発表。

この時点でのスペースジェットの総受注は267機となり、このうち確定受注は153機、

オプションと購入権は114機になりました。 ローンチカスタマーであるANAなどを傘

下に持つANAホールディングスは確定15機とオプション10機の最大25機を発注。日本

航空は32機をすべて確定発注で契約しており、今後は各航空会社への補償などの対応も

本格化するとみられます。

スペースジェットの試験機で、これまでに飛行したのは5機。初号機(登録記号JA21MJ)

は2014年10月18日にロールアウトし、2015年11月11日に初飛行しました。その後は

2016年5月31日に2号機(JA22MJ)、同年9月25日に4号機(JA24MJ)、3号機は同年

11月22日、設計変更を反映した通算10号機(JA26MJ)は2020年3月18日に初飛行しま

したが、すでに3号機は日本国籍機としての登録は2022年3月に抹消され、機体は解体さ

れました。

2020年、MRJ初飛行(三菱航空機より)

日本のリージョナル ジェット プログラムの章を物理的かつ象徴的に閉じる!

日本のリージョナル ジェット プログラムの章を物理的かつ象徴的に閉じる!

この記事の見出しは、日本航空機産業にとって衝撃的なものでした。

2023年3月8日(現地時間)、アメリカ・モーゼスレークでスペースジェット(旧

MRJ)初号機が解体されました。

今日、モーゼス レイクのグラント郡国際空港で、最初の三菱航空機リージョナル ジェット

/ スペースジェット JA21MJ が廃棄されています。ウェイド・サケットは今朝、引き裂か

れている航空機を撮影しました。(facebook:FATOPNWより)

失敗の原因

それでは、なぜスペースジェットは失敗したのでしょうか?

2023年2月7日の開発中止会見での三菱重工業の泉澤清次社長兼最高経営責任者(CEO)

(以下、泉澤社長)の報道陣の質問に対する回答からその要因を分析してみましょう。

原因は、日本の航空機産業の技術力不足か、それとも三菱重工業の技術力不足か?

どちらでもない。事業に入っていくための準備が足りなかった

何が足りなかったのか?

足りなかった知見は大きく2つ。1つは型式証明プロセスだ。型式証明プロセスには、必要

な仕事の段取りや、やり方、進め方、文書の準備の仕方、いろいろな設計データの整備の

仕方などのプロセスがある。これらのプロセスが型式証明を取ってこなかった我々には分

からなかった。実際にやってみて、初めて分かることが結構あったというのが現実だ。

もう1つは「対案の引き出し」である。型式証明プロセスは、要求にかなうように自分

で答えを作ってそれを証明するプロセスとなる。そこでいろいろな指摘を当局から受け、

受けた指摘に関して我々が対案を出していく。この部分の経験値(知見)が足りなかった。

海外のOEM(完成機)メーカーは当局からの問い合わせや質問、指摘に関して対案の引

き出しが多いのだと思う。この引き出しについても我々には足りなかったのだろう。

この点については、海外のエキスパート(専門家)を入れることで対案の引き出しが

増えて対応がスムーズにいくようになったと思っている。それでも、最終的なゴールに

はたどり着けなかった。

以上が、記者会見での泉澤社長の発言の一部抜粋です。泉澤社長は、準備不足を終始

強調していました。

まとめ

戦後、日本初の国産旅客機YS-11は、1956年の開発開始、1962年の試作機初飛行から

2011年の(海上保安庁)退役まで飛行した唯一の国産機です。海外にも輸出され

その性能は広く世界にも知れ渡りました。そして、今回のスペースジェットの開発

そして中止と日本の航空産業の歴史の時間は止まってしまいました。

太平洋戦争中、零戦など多くの名機を生んできた日本の航空業界。戦後の失われた

10年は、こんなにも未来に影響を与えてしまいました。そして、先日のH3ロケット

の打ち上げ失敗など、今の日本の航空産業にとって暗いニュースばかりです。

しかし、今回のスペースジェット初号機の解体の写真を墓標として胸に刻み、明るい

未来になるよう今後も活動していきましょう!

 

それでは今日はこの辺で・・・

またお会いできる日を楽しみにしています。

 

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