皆さんこんにちは!
お正月はいかがお過ごしですか?
私は今日は、毎年恒例の箱根駅伝・往路の観戦に行きました。
いつもの観戦場所は、3区の平塚中継所手前2km付近の湘南平塚ビーチパークの沿線です。
今日は天気も良く、風も穏やかなコンディションで富士山も綺麗に見えました。
話は変わりまして、今日は月ロケットの日です。
月ロケットの日
1959年(昭和34年)のこの日、ソ連が世界初の月ロケット・ルーニク(ルナ)1号の打ち上げに
成功しました。
月から6500kmの所を通過して月面を観測した後、太陽の周囲を回る軌道に入り、地球と火星の
間を公転する最初の「人工惑星」となりました。
ソ連は1957年(昭和32年)のスプートニク1号打ち上げ以来、宇宙開発を積極的に進めていま
した。
宇宙開発競争の一環として、月を目標にし、1958年(昭和33年)以降は月に探査機を着陸・
衝突させることを目的とした「ルナ計画」を行っていました。
ルナ1号と同年の1959年9月12日に打ち上げられたルナ2号は月に命中し、世界で初めて月面に
到達した人工物となりました。同年10月4日に打ち上げられたルナ3号は世界で初めて月の裏側
の撮影に成功、ルナ9号は1966年(昭和41年)2月3日に世界で初めて月面軟着陸に成功しまし
た。
米・ソの宇宙競争時代
競争の始まり
第二次世界大戦後始まった東西対立という冷戦は、米ソ両国の長射程の戦略ミサイルの開発を
推進し、戦略ミサイルの推進力と制御力の向上は人工衛星の打ち上げに大きく貢献しました。
米ソ両国は、宇宙空間の軍事的重要性に着目し、この空間の開発は国際秩序のリーダーシップ
を獲得する上で不可欠のものと認識していました。1955年7月、アメリカは1958年末までに
人工衛星を打ち上げることを表明し、翌日、ソ連も同様の発表を行いました。これらの声明は、
太陽の黒点が最大になる1957年7月から翌年12月までの地球観測年への貢献を目指したもので
ありましたが、同時に、宇宙開発を巡る米ソ両国の威信をかけた競争の幕開けを告げるもので
もありました。
1957年10月4日、ソ連は予告通りに、重量184ポンドのスプートニク1号を人類初の人工衛星
として 地球軌道上へ打ち上げました。アメリカは、スプートニク1号に遅れること4カ月後の
1958年1月31日、初 の人工衛星エクスプローラー1号の打ち上げに成功しました。バン・アレ
ン放射線帯の発見は、この打ち上げの成果でした。アメリカは、同年10月、軍とともに宇宙
開発を推進することになる国家航空宇宙局(NASA)を設置し、一般用の衛星打ち上げにも従
事させました。
これら人工衛星の打ち上げ成功により人類の宇宙活動が現実のものとなったため、宇宙法秩序
の作成が要請されました。国連は、1958年の第13回国連総会決議1472に基づいて、翌年に
「国連宇宙空間平和利用委員会(COPUOS)」を設置し、その法律小委員会に立法作業の任務
を付与しました。
この間にも宇宙空間の開発が続けられ、1959年には早くも写真偵察衛星が実用化されていまし
た。
1960年になると、アメリカは早期警戒衛星を利用したMIDASを実用化し、ソ連のICBMの警戒時
間を従来の倍の30分に延ばすことに成功しました。この年、アメリカによって初の気象衛星、航
法衛星、受動型通信衛星が打ち上げられました。
有人衛星
人工衛星打ち上げに続く米ソ両国の次の目標は、有人衛星の打ち上げであった。有人衛星をより
早く地球軌道上に打ち上げることは、宇宙開発を一層発展させると同時に、宇宙開発技術の信頼
性を裏づけることになるからです。ソ連は、1960年8月のライカ犬を乗せたスプートニク8号
の成功に続いて、61年4月、ガガーリン少佐の搭乗したヴォストーク1号による人類初の有人軌
道飛行を成功させました。アメリカが有人宇宙船フレンドシップ7号の打ち上げに成功したのは、
それから10カ月後でした。
ガガーリンはその後、世界各国を親善訪問し、1962年5月には日本を訪れました。
しかし1968年3月、空軍機で訓練飛行中に墜落し、34歳の若さで亡くなりました。
宇宙法原則宣言の採択
1961年12月の第16回国連総会における宇宙法原則宣言の採択は、翌62年の本格的な宇宙時
代の幕開 けを告げるものでした。COPUOSの法律小委員会第1回会合は、5月28日のことで
した。同委員会は、宇宙空間の軍事利用の問題に正面から取り組むことを避け、その任務の
範囲を平和利用の問題に限定しようとしました。米ソ両国は、各宇宙開発の担い手が軍事組
織であることから、宇宙空間の軍事利用の自由を確保しようとして、国連の場でこの問題を
討議することを好まなかったからです。
国連総会は、宇宙空間の平和利用に関する決議を幾度となく採択したが、これらの決議は
軍事利用を含まない平和的利用の問題についてのものとなっていました。軍事利用の規制
に関する問題は、軍縮の一環として取り扱われ、軍縮委員会で討議されることになりました。
競争の激化、そして月へ
米ソ両国以外の各国が宇宙利用に向けて具体的な活動を行うようになったのは、この年以降の
ことです。フランスは国立宇宙研究センター(CNES)を設立し、欧州宇宙ロケット開発機構
(ELDO)や欧州宇宙研究機構(ESRO)が発足しました。イギリスとカナダが初の衛星を打
ち上げ、日米間の初のテレビ中継があったのもこの年です。63年2月には、アメリカが民間
通信衛星会社であるコムサットを設立し、翌年8月、国際電気通信衛星機構(インテルサット)
暫定協定が成立するとともに、12月にイタリアがアメリカの協力で初の衛星を打ち上げました。
この頃の米ソ間の宇宙開発競争はいよいよ佳境に入り、人類初の月面到達を巡ってしのぎを削
っていました。ソ連は1966年2月にルナ9号月面到達に成功させたが、アメリカは5月にサー
ベイヤー1号を月面に到達させました。徐々に縮まった技術格差が逆転したのは、1969年7月
16日に打ち上げた有人宇宙船アポロ11号による20日の月面軟着陸でした。ソ連は、アポロ11
号打ち上げの4日前に無人宇宙船ルナ15号を打ち上げていましたが、これは月面に到達したのみ
で二度と地球へ帰還できませんでした。
米ソ間の宇宙開発技術が接近し逆転したちょうどその頃、COPUOSの法律小委員会の立法作業
は大詰めを迎えていました。1966年の第5回会期で合意に達した条約草案は、12月19日、国
連総会決議2222(XXI)として採択され、この宇宙活動の憲法とでもいうべき宇宙条約は、
翌年10月10日に発効しました。この条約草案審議に際して宇宙空間の「平和的利用」の解釈
を巡って米ソ間に争いがみられましたが、今日では、「非侵略的利用」を意味するというア
メリカの立場をソ連も理解しています。
1968年12月3日には、宇宙救助返還協定が発効しました。翌年には、国際電気通信連合条約
(ITC)が成立し、同年10月1日の宇宙開発事業団(NASDA)の発足をもって日本の宇宙開発
が本格的に開始されました。
かくして、宇宙の「開発事始め」からの15年間は、ポスト戦後の国際秩序のリーダーシップ
を巡る二極対立から生じた米ソ間の宇宙開発競争の時代であり、天体と宇宙空間の法的地位明
確化の時代として特徴づけられました。この時代における両国による主要な宇宙開発は、ほぼ
完全に別個の努力によって達成されたものであって、言葉の持つ厳格な意味で競争的なもので
ないとするなら、政治的な敵対関係の結果であったといえます。米ソ間に宇宙協力に関する会
談が始まるのは、ようやく1971年1月になってからのことでした。
(防衛庁防衛研究所第一研究部第二研究室長)
再び宙(そら)へ
アルテミス計画
第1段階として、2022年12月11日に米航空宇宙局(NASA)の新型宇宙船「オリオン」が
無人で月を周回する26日間の試験飛行を終え、地球に帰還しました。このミッションは月に
宇宙飛行士を再び送ることを目指す「アルテミス計画」の一環です。
宇宙船「オリオン」は地球の大気圏に再突入し、パラシュートでメキシコ沖の太平洋上に着
水し、待機していたチームがカプセルを回収しました。今後、オリオンが撮影した画像など
の分析が行われる予定です。
今回は試験飛行のため無人でしたが、次の試験飛行は実際に宇宙飛行士を乗せた状態で行う
予定です。
第2段階の有人での月周回飛行は2024年後半に開始され、2025年か2026年には人類を月面
に戻す試みも予定されています。
NASAのビル・ネルソン長官はこう述べています。
「いま我々は再び同じことをしようとしている。ただ、その目的は違う。今回は、さらなる
宇宙探索のための、生活や作業、創造を学ぶために月に戻る。この計画は、2030年代後半に
人類が火星に行くための、そしてさらにその先へ行くため準備だ」と。
まとめ
去年は1972年にNASAのアポロ17号が月面着陸してからちょうど50年にあたりました。
アポロ計画では我々人類は不可能を可能にしてきました。今後もアルテミス計画により
人類が月や火星に行ける時代が必ずやって来ます。アメリカやロシア、中国、北朝鮮など
兵器としてのミサイル開発に翻弄していますが、宇宙という未来に目を向けて欲しいです。
戦争と平和は表裏一体ですが、少しでも人類が平和に傾いてくれたらと願います。
それでは今日はこの辺で・・・
またお会いできる日を楽しみにしています。
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