戦前の女性飛行士

飛行機

皆さんこんにちは!

昨日の読売新聞の朝刊に投書『気流』というコーナーがあります。

今回は『戦前の女性飛行士』という投稿でした。

戦前の女性飛行士(上)

彼女の名前は、馬淵テフ子さんです。1934年11月、彼女の飛行機は

日本海を越え満州国(現中国東北部)まで飛行しました。

馬淵テフ子さんは、1911年に青森県弘前市に生まれました。小学校の

3年間を母親の実家である秋田県鹿角市で過ごします。実家は代々宮司を

務めており、祖母がテフ子の多額の訓練費や支援を行いました。その恩返し

として郷土飛行を行いました。

テフ子は、日本女子体育専門学校を卒業後フェリス和英女子校に体育教師

として就職します。1933年に東京に亜細亜航空学校ができると週末や

夏休みに足繁く通いました。大正から昭和初期にかけての1920~30

年代は、女性の社会進出が少しずつ始まるとともに、民間の航空学校が次

々と開設された時代です。客を乗せることができる一等飛行操縦しは男性

だけでしたが、二等や三等は女性にも門戸が開かれ約30名ほどの女性飛

行士が誕生しました。

1934年(昭和9年)10月26日、23歳のテフ子は羽田の飛行場か

らサルムソン2A2に乗り込み、満州国に飛び立ちました。大阪~福岡~

朝鮮と飛行し、途中プロペラに鳥が衝突して損傷するなど様々なトラブル

に見舞われながらも、11月4日に満州国に到着しました。前日に一足先に

到着した松本キクに続いての日本海を越えた2人目の日本人女性飛行士とな

りました。

記事は読売新聞2022年10月14日朝刊『気流』より

その後のテフ子

読売新聞の『気流』(上)はここまでです。(下)は、21日の朝刊に掲載

される予定です。

テフ子にとってこの満州国への飛行が最後の大きな飛行になりました。

テフ子はその後、ドイツへの飛行を計画していましたが、1937年(昭和

12年)に日中戦争が勃発したために断念しました。また、女性が飛行機に

乗ることは認められなくなりました。対米開戦後、日本軍が快進撃をおこなっ

ていた1942年(昭和17年)1月、女性飛行士の親睦会「紅翼会」の回覧

誌にテフ子は、女性には飛行機を駆って活躍できる機会がないことを嘆く文章

を寄稿しています。

1944年(昭和19年)、太平洋戦争の激化により、横浜山手女学院

(1942年にフェリス和英女学校より改名)を辞任して静岡県に疎開します。

テフ子は、掛川高等女学校(静岡県立掛川東高等学校の前身)などで体育教師

として働き、1964年(昭和39年)に静岡県立清水西高等学校で定年を

迎えました。

日本陸軍の乙式一型偵察機(サルムソン2A2型)

テフ子が乗っていた飛行機は、日本陸軍の乙式一型偵察機(サルムソン2A2型)

です。サルムソン 2はフランスのサルムソン社が開発した単発複葉複座の偵察、

軽爆撃機です。第1次世界大戦ではフランスの主力偵察機の一つでありました。

1919年(大正8年)に来日したフォール教育団の教材用としてまず29機が

輸入され、陸軍にサ式二型偵察機として制式採用され、1921年(大正10年)

には51機を輸入し乙式一型偵察機と改称しました。同時に陸軍では本機の国産

化に着手し、修理という名目で1920年(大正9年)末に国産1号機を完成さ

せました。その後航空補給部で約300機の生産を行いました。

沿革(航空宇宙事業) | 航空宇宙システムカンパニー | 川崎重工業株式会社

記事はWikipediaより参照

まとめ

終戦後、女性飛行士(パイロット)が誕生するまでは、何年もかかります。

戦争という時代の渦に翻弄されたテフ子達ですが、彼女たちの功績は今の

日本の女性パイロットに影響を与えています。

テフ子が残した言葉に

『女のくせに、あんなに高く上がっている』と、みんなが言っているようだ。

もっともっと上に上がってやれ。か弱い女の腕だって、男の人ができることが

できないはずはない。

全くその通りです。パイロットに男も女もありません。

またこのような言葉も残しています。テフ子が満州国に入ったときのこと、

真っ赤な夕日が大平原に沈んでいくのを目にして

神秘の絶対境(絶境)を一人で味わっている と。

パイロットとして最高の時間です。

 

それでは今日はこの辺で・・・

またお会いできる日を楽しみにしています。

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