皆さんこんにちは!
1947年10月1日、F86セイバーが初飛行しました。
日本の航空自衛隊も採用したF86戦闘機、セイバーについて見ていき
ましょう。
F86セイバー
F-86 セイバーは、アメリカのノースアメリカン社が開発し、世界各地で
運用されたジェット戦闘機です。愛称の「セイバー (Sabre)」は、サーベル
の意味です。
1947年10月1日に初飛行しました。後に生産国のアメリカをはじめ、
1950年代以降に多くの西側諸国で正式採用された亜音速ジェット戦闘機で、
アメリカ空軍が1950年代初頭より主力戦闘機として最も重きを置いて配備
を急いだ傑作機でした。朝鮮戦争にも投入され、第1世代ジェット戦闘機に
分類されます。
武装は当初こそ平凡なものでしたが、後に空対空ミサイル(サイドワインダー)
が開発されるとその有効性も実証しました。アメリカのみならず、カナダやオ-
ストライリアをはじめとして、日本やイタリアでも生産され、派生型も含めて
9860機が製造されました。
朝鮮戦争
F-86の名を上げたのは、初の実戦である1950年に開始された朝鮮戦争におけ
る活躍でした。
ソビエトから大量に貸与された中国人民解放軍所属のMIG-15飛来するようになり、
直線翼のジェット戦闘機では対抗しきれないと判断したアメリカ空軍は1950年
12月から、前線にF-86を投入し、朝鮮半島上空にて史上初の後退翼ジェット戦闘
機同士の空中戦が繰り広げらました。
日本への導入
日本においては、航空自衛隊の主力戦闘機としてF-86Fを435機、全天候型戦闘
機としてF-86Dを122機配備しました。F-86Fのうち18機は偵察機RF-86Fに改
造されました。航空自衛隊での正式な愛称は旭光(きょっこう)と言います。
ブルーインパルスの初代機体として採用され、1964年の東京オリンピックの
開会式で国立競技場の大空に五色の五輪マークを描いたことでも有名で、長年に
亘って活躍したことから「ハチロク」と呼ばれて親しまれました。
1955年12月1日に空自は、パイロット・整備員の育成と供与された機体が
揃ってきたことから、浜松基地にF-86Fを装備するパイロット育成を第一任務と
した、空自初の航空団である「航空団」(後の第1航空団)の編成が行われまし
た。同時に浜松基地では、ジェット機運用のための整備工事が進められました。
翌1956年1月10日、供与機による訓練が行われていた築城基地にて第1飛行隊
が新編され、同年8月24日に浜松基地へ移駐となります。8月25日には第2飛行隊
も新編され、同年9月より国産F-86Fの引き渡し が開始されました。10月1日に
は浜松基地にて第2航空団と隷下の第3航空団が組織されます。
その後、1961年までに第4、第5、第6、第7、第8、第9、第10飛行隊が
が編成されました。
そして、1962年から配備されたF-104に替わるまでの間、人々に親しまれ
てきました。1982年3月15日、最後のF86は入間基地で退役することとな
りました。
事故
1962年3月17日
築城基地から千歳基地に向かって飛行していたF86F、4機の内の2機が富士
山上空の乱気流に遭遇して墜落。パイロットは脱出して無事。
1963年3月2日
新田原基地のF86Fが宮崎県勲八山上空で翼が折れ墜落。パイロット1名死亡。
1964年8月21日
松島基地のF86Fが月山に墜落。パイロット1名死亡。
1971年7月30日
岩手県雫石上空でF86Fと全日空ボーイング727が空中衝突。全日空機の
162名全員が死亡。F86Fのパイロットは脱出して無事。
この事故は、最高裁まで裁判が行われました。当時の教官は有罪が確定し、事故機
の訓練生は無罪。その後、救難隊の任務に就かれ定年を迎えられました。なお、有
罪になった教官の方はその4年後に亡くなられています。
まとめ
航空自衛隊の初のジェット戦闘機として活躍したF86セイバー。日本で初めての
アクロバットチーム、ブルーインパルスの初代航空機としての勇姿は決して忘れる
ことはできません。多くの先輩方が苦労されたお話を聞きました。その上に今の日
本の平和があると実感しています。
それでは今日はこの辺で・・・
またお会いできる日を楽しみにしています。
コメント