皆さんこんにちは。吉川哲也です。
穏やかな青空の下、機体は静かに傾き始めた。パイロットは気づかない。これが世界で最も多くの命を奪ってきた事故の始まり。『LOC-I(制御不能飛行)』とは何か、一緒に考えてみてください。
LOC-I(制御不能飛行)とは何か?―空で「姿勢を失う」ということの意味
あの日、空で何が起きていたのか
青空の下、一機の飛行機が飛んでいる。 窓の外に広がる雲、遠くに見える地平線。 乗客はコーヒーを飲み、パイロットは計器を確認している。
一見、何も変わらない。穏やかな光景だ。
しかしその瞬間、操縦席では想定外のことが起きていた。
機首が静かに、しかし確実に下がり始めた。バンク角が大きくなる。速度が増す。気づいたときには、機体はすでに「設計上の限界」に近い姿勢に入り込んでいた。
これが、LOC-I(Loss of Control In-flight)――飛行中の制御不能――の始まりだ。
「墜落」の前に何があるか、私たちは知らない
飛行機事故のニュースが流れるとき、多くの場合「墜落した」という結果だけが伝えられる。
しかし航空安全の世界では、「なぜ墜落したか」の分析が何よりも重要だ。そしてその答えとして、長年にわたって世界のトップに君臨し続けている原因カテゴリーがある。
それがLOC-Iだ。
国際航空運送協会(IATA)の安全報告書によれば、LOC-Iは商業航空における死亡事故の原因として長期にわたり第1位を占め続けている。テロでも、整備不良でも、悪天候でもなく――「パイロットが機体の制御を失った」という状況が、最も多くの命を奪ってきた。
なぜこれほどまでに、LOC-Iは危険なのか。
「自分の感覚」が、最大の敵になる
ここで少し、想像してほしい。
あなたが目を閉じて椅子に座っている。誰かがゆっくりと椅子を傾けていく。最初の数秒は気づけるかもしれない。でも、ゆっくりと、ほんの少しずつ傾けられたとしたら?
人間の平衡感覚には「閾値」がある。一定以下の変化は、感知できないのだ。
飛行機の中でも、同じことが起きる。
雲の中を飛んでいるとき、視界がない状況では、パイロットは計器に頼って飛ぶ。しかし人間の身体は正直なもので、どうしても「感覚」に引きずられる。機体が傾いていても、長い時間をかけてゆっくり傾いていれば、身体はそれを「まっすぐ」と感じてしまう。
これを「前庭錯覚(ベスティビュラー・イリュージョン)」と呼ぶ。
そしてある瞬間、計器を見たパイロットが思う。「おかしい、傾いている」。慌てて修正しようとする。しかしそのとき身体の感覚は逆のことを訴えていて――修正操作が「逆方向」になることがある。
空の上で、自分の感覚が嘘をつく。これがLOC-Iの本質の一つだ。
「うまくなるほど」陥りやすい罠
もう一つ、LOC-Iが厄介な理由がある。
経験を積んだパイロットほど、「自分は大丈夫だ」という自信を持ちやすい。これは決して悪いことではない。豊富な経験は確かな財産だ。
しかし「異常姿勢」というのは、教科書どおりに発生してくれない。
たとえば、乱気流の中で機体が突然大きくロールした瞬間。 あるいは、雲の中を飛行中に知らぬ間に機体が傾き始め、速度が増してきた状況。
そういう予期せぬ瞬間に、人間の「慣れた身体」は、慌てて「経験上の正解」を選ぼうとする。
しかしその「正解」が、異常姿勢という特殊な状況では「不正解」になることがある。
たとえば急激な降下から引き起こそうと操縦桿を強く引いたとき――機体の速度が非常に高ければ、翼が限界を超えてしまうこともある。逆に、翼が失速(ストール)している状態で正面を向けようとする操作をすれば、事態が悪化することも。
「うまく飛べる」と「異常事態から回復できる」は、まったく別のスキルなのだ。
世界はこの問題に、どう向き合ってきたか
LOC-Iのリスクが航空業界で認識されるにつれて、世界の航空当局や訓練機関は対策を講じてきた。
その中心にあるのが、UPRT(Upset Prevention and Recovery Training)――異常姿勢防止・回復訓練だ。
UPRTは、単に「異常な姿勢になったときどう直すか」を教えるだけではない。そもそも異常姿勢に「入り込まないようにする」認識力、そして万が一入り込んでしまったときに「慌てず、正しい手順で回復する」技術を、身体に染み込ませる訓練だ。
国際民間航空機関(ICAO)はDoc 9625においてUPRTの導入を推奨し、アメリカのFAAはAC 120-111として具体的な指針を示している。ヨーロッパではすでに一部義務化が進み、主要な航空会社・訓練機関はこぞってUPRTカリキュラムを取り入れている。
では、日本は?
残念ながら、国内でのUPRT訓練の標準化・義務化は、まだこれからだ。
「知ること」が、最初の一歩
LOC-Iというものを知っている人は、航空業界の外ではほとんどいない。
でも、これほどまでに多くの命に関わってきた問題が、ほぼ語られてこなかったのは、少しもったいないとも思う。
飛行機が怖い人に「大丈夫ですよ」と言いたいわけではない。ただ、「何が危ないか」「どう防ごうとしているか」を知ることは、航空という世界をより深く理解することにつながると思うのだ。
LOC-Iは、「人間と機械と物理法則」が複雑に絡み合った問題だ。どんなに優秀なパイロットでも、訓練なしに乗り越えられる保証はない。だからこそ、世界は訓練で立ち向かおうとしている。
次回は、その訓練の具体的な中身――UPRTが実際にどんなことをするのか、なぜ日本にも必要なのかを掘り下げてみたい。



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