遙かなる大空 ── VOL.66
日本の空が、静かに変わった
── UPRT、ついに制度化
大きく報じられないうちに、日本は歴史的な一歩を踏み出していた。異常姿勢からの回復訓練が、法律の要件になったのだ。何が変わり、何がまだ足りないのか。
派手なニュースにはならなかった。しかし、日本の航空安全にとって、これは間違いなく歴史的な出来事だ ── 2025年(令和7年)、国土交通省は航空法施行規則を改正し、飛行機の操縦士が技能証明を得るために必要な経歴に、UPRT(異常な姿勢の予防及び異常な姿勢からの回復を行う飛行)を正式に加えた。長年このブログで「日本にはUPRTの制度がない」と書き続けてきた私にとって、これは万感の一報だった。今日は、この静かな、しかし大きな前進を、正確に読み解きたい。
何が起きたのか ── 三つの改正
今回の制度化は、一つの省令と、それを支える通達群で構成されている。国際標準(ICAOのDoc 10011)に足並みをそろえる形で、日本の訓練体系にUPRTが編み込まれた。要点は三つだ。
施行には経過措置が設けられ、現場が新基準へ移行する時間が確保された。つまり、絵に描いた餅ではなく、実際に運用が始まる制度として設計されている。日本はドローンやeVTOLで見せた「やればできる」を、固定翼のUPRTでも示したのだ。まずは、この事実を率直に喜びたい。
国が「要る」と、法律で答えたのだ。
見落とされがちな核心 ──「実機」が要る場面がある
ここからが、専門家として最も注目してほしい点だ。今回の制度は、UPRTを一律に「シミュレーターで足りる」とはしていない。訓練の中身は、資格や場面によって、学科・実機・模擬飛行装置を使い分けるよう設計されている。とりわけ、通達には「実機訓練によるUPRTの経歴」を求める場面が明記された ── たとえば外国の技能証明を日本のものへ切り替える場合などだ。二人操縦を要する大型機の型式限定では学科とシミュレーターの組み合わせが認められる一方で、UPRTの土台となる実機での経験が、制度の中にはっきりと位置づけられたのである。
これは理にかなっている。本ブログで繰り返してきたとおり、本物のG、本物の驚愕、本物の身体反応は、地上のシミュレーターだけでは再現しきれない(Vol.15)。世界最高水準の訓練機関も、実機とシミュレーターを役割分担させた「統合システム」として提供している。日本の新制度が、実機の価値を制度の中に書き込んだことは、国際標準の思想を正しく汲んだ証だと私は受け止めている。
制度はできた。では、教える場所は?
ここで、正直に、しかし前向きに、残された課題を書かねばならない。制度は、UPRTを求める。実機の経験を求める場面もある。だが ── 日本国内に、実機UPRTを専門に提供できる機関が、まだ存在しない。制度という「需要」が生まれたのに、それを満たす「供給」の足場が、国内にほとんどないのだ。エアラインは自社や海外の力で対応を始めるだろう。しかし、資格を目指す訓練生、中小の事業者、そして地方の裾野にまで、この新しい要件を行き渡らせるための国内インフラは、これから作られねばならない。
私見 ── この一歩を、実装で完成させる
制度は、地図だ。だが地図があっても、道は誰かが歩いて作らねばならない。国が「UPRTは必要だ」と法律で宣言した今、次に問われるのは、それを現場で本当に教えられる場所と人を、この国に作れるかどうかだ。私は、まさにそのために動いている。世界最高水準の実機UPRTを学び、日本に持ち帰り、国の制度を現場で実装する担い手になる ── それが、私がいま挑んでいることだ。制度化は終わりではなく、始まりである。日本の空は、静かに、しかし確実に、正しい方向へ舵を切った。あとは、その舵を、現場の力で前へ進めるだけだ。
── 長年の主張が、制度になった日に
正直に言えば、感慨深い。「UPRTは、あれば良い訓練ではない」と言い続けてきた。その言葉が、いま日本の制度の中に、確かな形を得た。だが浮かれてはいられない。制度が求める水準に、現場の供給が追いつかなければ、要件は絵に描いた餅になる。喜びは今日だけにして、明日からはまた、その谷を埋める仕事に戻る。
日本はUPRTを、法律にした。世界の標準に、並んだ。
残る課題は、それを本当に教えられる場所を、この国に作ること。
制度は地図、実装は道だ。
UPRTは「あれば良い訓練」ではない ── いまや、法律がそう言っている。
吉川 哲也(Tetsuya Kikkawa)
UPRT JAPAN INITIATIVE / 現役エアラインパイロット
数字は嘘をつかない ── UPRT は「あれば良い訓練」ではない。
出典・参考資料
- 国土交通省「航空法施行規則の一部を改正する省令」(令和7年国土交通省令第58号)── 飛行機の技能証明に必要な経歴にUPRTを追加。国際標準に基づく措置。
- 国土交通省航空局安全部安全政策課「異常な姿勢の予防及び異常な姿勢からの回復を行う飛行に係る訓練について」(令和7年11月27日制定 国空安政第1903号)── UPRTの定義、訓練内容、教官・機材要件、実機訓練/模擬飛行装置の使い分け、外国ライセンス切替時の実機UPRT経歴要件等。e-Gov
- 日本航空機操縦士協会(JAPA)「操縦士実地試験実施細則等の一部改正について」(2025年12月/2026年5月)── 実地試験実施細則・養成施設審査要領の改正、経過措置に関する告知。japa.or.jp
- ICAO, Manual on Aeroplane Upset Prevention and Recovery Training (Doc 10011, 2014)/FAA AC 120-111 ── 国際的なUPRTの枠組み。
- 本ブログ Vol.15(シミュレーターと実機のあいだに架かる橋)/Vol.55(CBTA・EBTと世界の訓練改革)/Vol.60(MOSAICと日本)── 関連する論点。※制度の詳細・最新の施行状況は、必ず国土交通省の一次情報をご確認ください。



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