遙かなる大空 VOL.153
時計を巻け
SOPとルーティーンは、似ているが別のものである
手順書が始まる、その前の数秒について。
この記事の要点(約8分)
- SOPは組織が定め、全員に適用される。ルーティーンは自分で作り、自分にだけ適用される。
- SOPが覆っていないのは、想定外が起きた最初の数秒である。固まり、視野が狭まり、操縦が過剰になる時間。
- その数秒を埋めるのが「時計を巻け」。急がないための、意図的な儀式である。
皆さんこんにちは。今日は数字の少ない回です。ずっと考えてきたことを書きます。
一流の選手は、必ずルーティーンを持っています。サーブの前に同じ回数ボールをつく。打席に入る前に同じ動作をする。傍から見れば験かつぎのようですが、そうではありません。
操縦士の世界にも、同じものがあります。そしてSOP(標準運航手順)と、よく混同されます。
この二つは、似ているようでまったく別のものです。そして緊急事態において、本当に効いてくるのは後者のほうかもしれません。
1. ルーティーンとは何か

【図1】
スポーツ心理学では、これをプレパフォーマンス・ルーティーンと呼びます。定義はこうです。
あらかじめ順序づけられた思考と行動であり、意識して考えなくても実行できるところまで機械化されたもの。
構成要素は三つあるとされています。覚醒水準の調整。深呼吸をして、高ぶりすぎを下げ、沈みすぎを上げる。注意の制御。短い言葉を一つ唱えて、課題に関係する手がかりに意識を向け直す。そして決まった動作。同じ順序で、同じ回数、毎回まったく同じに。
研究が繰り返し示しているのは、ルーティーンが注意を集め、気を散らすものを遮断し、成績のばらつきを減らすということです。
そして重要な点が一つ。その中身は、選手ごと・競技ごとに固有です。人から借りてきても意味がありません。
2. SOPとは何か
一方、SOPは組織が定める手順です。

【図2】
誰が決めるか。組織です。誰に適用されるか。全員に、同じものが。目的は何か。誰がやっても同じ結果になるようにすることです。
だから守らなければ逸脱であり、報告の対象になります。そして個人が勝手に変えることはできません。
対してルーティーンは、自分で作り、自分にだけ適用され、目的は自分の状態を一定に保つことです。守らなくても誰にも知られません。
ここを誤解してはいけません。ルーティーンは、SOPの代わりにはなりません。私物化された手順は、複数乗務の世界では危険ですらあります。
ルーティーンは、SOPを自分の身体で実行できる状態に保つための土台です。
3. 手順書が始まる、その前の数秒
では、なぜ個人のルーティーンが要るのか。

【図3】
SOPは、正常な運航を細部まで定めています。そして想定された異常についても、記憶項目と点検表があります。ここまでは覆われています。
問題は三つ目です。想定外の出来事が起きた、最初の数秒。何が起きたのかも分からない時間です。
このとき身体に何が起きるか。欧州の研究機関が驚愕効果について調べた報告によれば、固まる、視野が一点に狭まる、操縦が過剰になる。そしてこれらは、重大な制御不能事故の寄与要因として指摘されています。
この数秒のあいだに、点検表を開く人はいません。開けるようになるまでに、何秒かかかります。
つまりSOPは、手順書を開けるようになってから始まるのです。その手前の時間を、何が埋めるのか。
何をするかは、その場で決めるのではなく、前もって決めておく。
4. 時計を巻け
この問いに、航空は古くから一つの答えを持っていました。

【図4】
緊急事態で最初にやるべきことは、時計のねじを巻くことである。
操縦士のあいだで長く言われてきた格言です。いまではUPRTと実証に基づく訓練の両方で、驚愕への対処として明示的に教えられています。
中身を分解すると、こうなります。反射的に動こうとする衝動を断ち切る。姿勢と速度を整え、機体をまず安定させる。何が起きているかを声に出して共有する。そして、それから診断する。
気づいていただきたいのは、時計を巻くことそのものには、何の意味もないということです。意味があるのは、巻いているあいだの数秒です。
その数秒で、手が止まり、視野が戻り、考えが追いつく。急がないための、意図的な儀式です。
これはまさに、アスリートのルーティーンと同じ構造をしています。動作そのものではなく、動作が作り出す数秒に価値がある。
この記事の限界
本稿はSOPからの逸脱を勧めるものではまったくない。個人のルーティーンは、定められた手順の内側で、自分の状態を整えるためのものである。両者が衝突する場面では、手順が優先する。
また、「時計を巻け」は字義どおりの操作を指すものではない。現代の機体に巻く時計はない。間を取ることの比喩として語り継がれてきた言い回しである。
そして本稿は、特定の手法を推奨する専門的な助言ではない。何が有効かは機種、運航、組織の方針により異なる。筆者の考えと、公開された研究の紹介にとどまる。
5. 経験では、作れない
最後に、いちばん大事なことを書きます。
ルーティーンは、飛行時間を重ねれば自然に身につくものではありません。
Vol.142で紹介した論文は、経験を八つの領域に分け、飛行時間に直接比例するのは技術的能力だけだと述べていました。ストレスの調整は、受動的な蓄積ではなく意識的な練習を要する、と。
そしてVol.146で書いたとおり、AF447の乗員も、コルガン航空の乗員も、手順を知らなかったわけではありません。知っていて、その瞬間に出てこなかった。
差は、準備段階にあります。何が起きたら自分は最初に何をするのか。それを飛ぶ前に決めてあるか、決めていないか。
これは才能でも経験でもなく、考え方の問題です。そして考えることは、地上でできます。
現場のパイロットとして
私にもいくつかあります。たいしたものではありません。離陸前に、今日いちばん起こりそうな異常を一つだけ頭に浮かべる。滑走路の長さ、風、重量、整備の記録。その日の条件から、一つだけ選ぶ。
当たったことは、ほとんどありません。ですが、やっているあいだに頭が運航の側に向きます。効いているのは予測ではなく、その切り替えのほうだと思っています。
来月、アリゾナで実機の訓練を受けます。おそらく、自分のルーティーンが通用しない場面に置かれることになります。通用しなかったものこそ、持ち帰る価値があると思っています。
結論
SOPは組織が定め、全員に適用され、守らなければ逸脱になります。ルーティーンは自分で作り、自分にだけ適用され、誰にも知られません。
SOPは、正常と想定された異常を覆っています。覆われていないのは、想定外の最初の数秒です。手順書を開けるようになるまでの時間を、何が埋めるのか。
答えは、飛ぶ前にしかありません。自分の数秒を、前もって決めておくこと。それは経験ではなく、考え方の問題です。
数字は嘘をつかない――UPRTは『あれば良い訓練』ではない。
吉川 哲也(Tetsuya Kikkawa)
UPRT JAPAN 代表
エアラインパイロット(A320)
HIEN Aero Technologies シニアアドバイザー・テストパイロット
元航空自衛隊戦闘機操縦士(F-4・C-130)
出典・参考
- Cotterill, S.「Pre-performance routines in sport」ほかスポーツ心理学の研究 ― ルーティーンの定義、三つの構成要素、注意の制御と気を散らすものの遮断、選手ごと・競技ごとの固有性。
- EASA「Startle Effect Management」(EASA_REP_RESEA_2015_3)およびその解説 ― 驚愕反応として固まること、注意のトンネル化、操縦の過剰反応。UPRTおよび実証に基づく訓練における明示的な訓練目標であること。「時計を巻け」という言い回しの意味。
- FAA 諮問回状 AC 120-71B「Standard Operating Procedures and Pilot Monitoring Duties for Flight Deck Crewmembers」― 標準運航手順の位置づけ。
- 関連記事:遙かなる大空 Vol.117「驚けなければ、訓練にならない」、Vol.142「そこで何を学んだかは、記録されない」、Vol.146「訓練が、法廷に立った」。
※ 本稿は2026年10月時点の公開情報と筆者の考えに基づく。SOPからの逸脱を勧めるものではない。特定の手法を推奨する専門的な助言でもない。図はいずれも筆者による整理である。
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