遙かなる大空 ── VOL.65
「話し合った」は、
「訓練した」ではない
操縦室が煙で満ちる緊急事態。頻繁に起きるのに、その多くは”口頭の説明”だけで済まされている。義務化されていない訓練の空白を、考える。
最近、こんな指摘が業界メディアで取り上げられていた ── 操縦室内の煙(スモーク・イン・コックピット)は決して珍しくない緊急事態であるにもかかわらず、商用エアラインには、その事態を想定したシミュレーター訓練が義務づけられていない。多くの場合、訓練は”口頭での話し合い”だけで済まされている、と。事故の話ではない。だが私には、これがどんな事故ニュースよりも、静かに背筋を冷やす話に思えた。今日は「義務化されていない訓練」という、空白について書きたい。
煙は、数分で判断を奪う
操縦室に煙が充満するとどうなるか。視界が失われ、計器が見えなくなり、有毒ガスが思考を鈍らせる。過去の重大事故の分析では、機内火災・煙の発生から機体が制御不能に至るまで、驚くほど短い時間しか残されていないことが繰り返し示されてきた。乗員は、酸素マスクとスモークゴーグルを装着し、煙源を絶ち、最寄りの空港へ緊急降下を判断し、客室と連携する ── これらを、視界も思考力も奪われながら、分刻みで実行しなければならない。まさに、驚愕と時間圧が知識へのアクセスを断つ、あの領域だ。
煙の中で体が動くことは、別の能力だ。
「ブリーフィング」と「トレーニング」の深い溝
ここに、航空安全の根深いテーマがある。手順を口頭で確認すること(ブリーフィング)と、その手順を身体に染み込ませること(トレーニング)は、まったく別物だ。前者は「知っている」を作り、後者は「できる」を作る。平時には、この違いは見えない。だが、煙が充満し、警報が鳴り、時間が刻一刻と失われていく極限では、「読んで知っている手順」は驚くほど脆い。人はパニックの中で、手順書のページをめくる余裕を持てないからだ。これは、本ブログが繰り返してきた「驚愕のパラドックス」── ブリーフした技法ほど、肝心な時に使えない ── と、まったく同じ構造である。
なぜ空白は埋まらないのか
では、なぜこの空白が放置されるのか。理由は単純ではない。実地訓練にはコストと時間がかかる。シミュレーターの枠は限られ、義務でなければ後回しになる。そして何より、「めったに起きないこと」への投資は、経営的に正当化しにくい。だが、この論理こそが危うい。頻度が低くても、起きたときの結果が致命的な事象 ── それこそ、訓練で備えるべき最優先領域のはずだ。規則が最低基準しか求めないなら、最低基準しか行われない。これは、APSのランズベリー氏が言う「コンプライアンス(規則遵守)に最適化され、レディネス(即応力)に最適化されていない文化」そのものである。
私見 ── UPRTも、同じ空白の中にある
私がこの話に強く反応するのは、UPRTが置かれている状況と、瓜二つだからだ。操縦室の煙も、機体の異常姿勢も、「頻度は低いが、起きれば致命的」で「口頭の理解では乗り切れず、身体化された訓練を要する」点で、完全に同じ構造にある。そして日本では、実機UPRTを受けられる場所が、まだ一つもない。煙の訓練義務化の議論と、UPRTの導入の議論は、根っこで一つに繋がっている ── 「頻度の低い致命的事態に、私たちは口頭の説明で満足していないか?」という、同じ問いだ。規則が求める最低限の、その先へ。私は、その一歩を日本で踏み出したい。
── 「めったに起きない」の正体
「めったに起きない」は、「起きない」ではない。それは「いつか、誰かに、必ず起きる」を、確率で薄めた言葉にすぎない。その”いつか”の当事者になるのが、自分の乗る便のクルーかもしれない。だから私たちは、頻度ではなく結果の重大さで、訓練の優先順位を決めなければならない。口頭で”話し合った”だけの手順を、”訓練した”と呼んではいけない。
頻度が低くても、結果が致命的なら、訓練で備える。
煙も、異常姿勢も ──「話し合った」で終わらせない。
「できる」まで、体に落とす。
UPRTは「あれば良い訓練」ではない。
吉川 哲也(Tetsuya Kikkawa)
UPRT JAPAN INITIATIVE / 現役エアラインパイロット
数字は嘘をつかない ── UPRT は「あれば良い訓練」ではない。
出典・参考資料
- GlobalAir.com「Aviation Safety News」(2026年5月)── 操縦室内の煙は頻発する緊急事態でありながら、商用エアラインにスモーク・イン・コックピットのシミュレーター訓練が義務づけられておらず、多くは口頭での議論に留まる、との指摘。globalair.com
- NBAA「How Bizav Operators Support Pilot Proficiency」(2026年)── カレンシー(要件充足)とプロフィシエンシー(真の技量)の混同への警鐘、チームワーク・デブリーフ・自己評価の重要性。nbaa.org
- ICAO Doc 10011/FAA AC 120-111 ほかUPRT関連指針、および機内煙・火災に関する各国事故調査報告の一般的知見(発生から制御喪失までの時間的切迫性)。
- 本ブログ Vol.41(驚愕のパラドックス)/Vol.55(CBTA/EBTと世界の訓練改革)/Vol.62(無事に降りた着陸)── 関連する論点。


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