国が「罰しない」と約束した制度

飛行機


遙かなる大空 VOL.122

国が「罰しない」と約束した制度

日本にあるのに、あまり知られていない航空安全の器
器は空でも壊れない。だが、空の器は誰も救わない。

この記事の要点(約6分)

  • 日本には2014年から航空安全情報自発報告制度(VOICES)がある。事故になる前のヒヤリハットを、自分の意思で報告する仕組み。
  • 国土交通省は航空安全プログラムに明記している。「仮に違反があったことを知ったとしても、不利益処分等の根拠として使用しない」。
  • 制度は用意されている。問題は、それを使う文化があるかどうかである。

皆さんこんにちは。ここ数日、マイアミの事故について書いてきました。今日は少し離れて、日本にある制度の話をしたいと思います。

Vol.119で、教育を三つの層に分けました。手続き、技能、そして判断と人格。第三層について私はこう書きました。引き返す勇気。分からないと言える力。仲間を止める言葉。

あの記事を書いたあと、自分で気づいたことがあります。日本には、その第三層を支えるための器が、すでに用意されている。それなのに、あまり語られていません。

1. 二つの報告制度

日本の航空安全には、報告の仕組みが二つあります。

一つは義務報告です。法令が「報告せよ」と定めている。事故と重大インシデント。つまり、起きてしまったことです。報告しなければ違反になります。

【図1】

もう一つが自発報告。2014年7月10日に始まった制度で、略称をVOICESといいます。Voluntary Information Contributory to Enhancement of the Safety の頭文字です。

こちらが集めるのは起きなかったことです。ヒヤリハット。人的エラーや安全を阻害する要因はあったけれど、不安全事象として顕在化しなかった事象。

この差が決定的です。事故は義務報告で集まります。だが事故になる前の情報は、放っておいても集まりません。誰も報告する義務がなく、報告すれば自分が疑われるかもしれないからです。

その空白を埋めるために作られたのがVOICESです。ICAO第19附属書「安全管理」の規定に沿った制度で、日本の場合、公益財団法人 航空輸送技術研究センター(ATEC)が運営しています。

2. 国が自ら手を縛った

この制度を調べていて、私が思わず二度読んだ条文があります。

【図2】

国土交通省航空局の「航空安全プログラム」第4章2に、こう書かれています。

航空安全当局は、この制度において収集した情報のうち、個人、会社名等が特定される情報について、直接アクセスせず、運営主体に対し、当該情報の提供を求めない。また、仮に当該情報において違反があったことを知ったとしても、当該情報を不利益処分等の根拠として使用しない。

監督する側が、自ら手を縛っています。違反を知っても罰しない、と書面で約束している。行政の文書として、これは相当に踏み込んだ表現だと思います。

報告者を守る仕掛けは四つあります。

第三者が運営する。国でも会社でもない組織が受け皿になる。これが制度設計の出発点です。

秘匿化する。個人名も会社名も、特定できる情報は消去または伏せ字にされます。

連絡先を抹消する。ここが私には印象的でした。分析が終わったあと、報告者の連絡先は消されます。以降は分析担当者からも本人に連絡できなくなる。追跡できない状態を、制度が意図的に作っているのです。

そして罰に使わない。先ほどの条文です。

報告して不利になるなら、誰も報告しない。だから不利にしない、と国が先に決めた。

3. 「伝聞は含まない」という線

制度の記述に、もう一つ目を引く条件があります。報告できるのは「自らが、当事者であるか否かにかかわらず、その五感により直接確認した」事象だけです。そして括弧書きでこう補足されています。「他人からの伝聞によるものは含まない」。

【図3】

最初に読んだとき、なぜここまで狭めるのかと思いました。情報は多いほうがいいのではないか、と。

考えて、納得しました。噂を集めれば、制度は告発の場になります。「あの人がこうしていたと聞いた」が積み上がる仕組みになれば、現場は身構える。そうなれば誰も報告しなくなり、制度そのものが死にます。

「自分が見た」だけに限る設計は、情報を減らすためではなく、制度を生かすための線なのだと思います。報告する制度であって、通報する制度ではない。

同様に、義務報告の対象になる事象はVOICESでは扱えません。重い事象を匿名の器に逃がすことはできないという線引きです。ここも筋が通っています。

この記事の限界

本稿は制度の設計について書いたものであり、実際にどれだけ報告が集まっているかを、筆者は確認できていない。年間の報告件数、分野別の内訳、そこから生まれた提言が実際に制度改正に結びついた件数——いずれも本稿では示していない。

そして正直に言えば、その数字こそが本当の論点です。制度が優れていることと、制度が使われていることは別だからです。刊行物はVOICESのサイトで公開されているため、次回はそこを読んで書き直したいと考えています。

4. 制度が用意できないもの

ここで、Vol.119の話に戻ります。

【図4】

制度が用意できるのは、匿名性です。連絡先の抹消です。第三者による運営です。罰しないという約束です。これらは全部、制度で作れます。

制度が用意できないものがあります。分からないと言う勇気。仲間を止める言葉。そして、自分の失敗を書く手です。

ヒヤリハットを報告するというのは、多くの場合、自分がしくじった話を自分で書くということです。匿名であっても、書くのは自分です。誰にも見つからないと分かっていても、指が止まる。

私はこれを、制度の欠陥だとは思いません。制度の限界です。そして限界の先にあるものが、Vol.119で書いた第三層——判断と人格です。

現場のパイロットとして

正直に書きます。私はこの制度に報告したことがありません。存在は知っていました。それでも書かなかった。理由を自分に問うと、面倒だったから、というのが一番近い。危ないと思った場面はいくつもあったのに、着陸して、報告書を書いて、帰って、忘れました。

教育を語る記事を書いておいて、これでは筋が通りません。次に「危なかった」と思ったら、書きます。ここに書いた以上、逃げられなくなりました。それでいいと思っています。

結論

日本には、事故になる前の情報を集めるための器があります。国が自ら手を縛り、違反を知っても罰しないと約束したうえで作った器です。

よくできた制度だと思います。ただし、器は空でも壊れません。使われていなくても、制度は制度として存在し続ける。

空の器は、誰も救わない。制度を作ることと、使われることは、別の仕事です。そして後者は、私たち一人ひとりの側にあります。

数字は嘘をつかない――UPRTは『あれば良い訓練』ではない。

吉川 哲也(Tetsuya Kikkawa)

エアラインパイロット(A320)
UPRT JAPAN 代表
HIEN Aero Technologies シニアアドバイザー・テストパイロット
元航空自衛隊戦闘機操縦士(F-4・C-130)

出典・参考

※ 本稿は2026年9月時点の公開情報に基づく。制度の運用実績(報告件数等)は本稿では扱っていない。図はいずれも筆者による概念整理である。

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