他山の石ー経験とは何か。若いパイロットに、伝えておきたいこと

UPRT


遙かなる大空 VOL.124

他山の石

経験とは何か。知識が知恵に変わるとき。
若いパイロットに、いま伝えておきたいこと。

この記事の要点(約7分)

  • 経験とは、飛行時間ではない。他人が起こした事故を自分のものとして受け取ることが、経験である。
  • マニュアルは、失敗の堆積である。なぜそう書いてあるかを知らずに守ることは、そこに書かれた失敗の意味を受け取っていないに等しい。
  • 自動化が働いているあいだは知識だけで飛べる。消えた瞬間に残るのは、知恵だけである。

皆さんこんにちは。今日はニュースではなく、私がずっと考えてきたことを書きます。経験とは何か。そして、知識と知恵はどう違うのか。

若いパイロットに向けて書いているつもりですが、書きながら自分に言い聞かせている部分も多いと思います。

1. 経験とは、飛行時間ではない

「あの人は経験がある」と言うとき、多くの場合それは飛行時間を指しています。1万時間、2万時間。数字は分かりやすい。

ですが私は、それを経験とは呼ばないことにしています。

【図1】

私自身の総飛行時間は約1万8千時間です。その中で、自分が事故に遭った回数はゼロです。そして、これからもゼロであってほしい。

ここに矛盾があります。自分の失敗だけで経験を積もうとするなら、その回数には上限がある。一度で終わることも、あるからです。

だから経験とは、他人が起こした事故やインシデントを、自分のものとして受け取ることだと私は考えています。読んで、想像して、自分ならどうしたかを考える。それを繰り返した回数が、その人の経験です。

この意味では、飛行時間300時間でも経験のあるパイロットは存在します。逆に、1万時間飛んでいて経験の乏しい人もいます。飛んだ時間と、受け取った教訓の数は、比例しません。

2. 他山の石という言葉

日本には、この考え方をそのまま表す言葉があります。他山の石。

【図2】

出典は中国最古の詩集『詩経』、小雅の「鶴鳴」です。佗山之石 可以攻玉。よその山から出たつまらぬ石も、自分の玉を磨く砥石としては役に立つ。

大事なのは、これが「つまらぬ石」の話だということです。手本にすべき立派な行いではなく、他人の誤った言行から学ぶという意味です。良い例を真似するのは他山の石ではありません。

ところが、文化庁の国語に関する世論調査によれば、この言葉を本来の意味で使っている人は26.8%にとどまります。「他人の良い言行は自分の手本となる」という誤った意味で使っている人が18.1%。そして最も多いのは「分からない」で27.2%でした。

私はこの数字に、少し皮肉なものを感じます。「他人の失敗に学べ」という言葉そのものが、四人に一人にしか通じていない。

他人の失敗は、拾わなければ、ただの石のままである。

3. マニュアルは、失敗の堆積である

ここから、若いパイロットに最も伝えたい話に入ります。

「規則とマニュアルから逸脱しなければ安全だ」と思い込んでいる人が、少なくありません。書いてあることを全部守っている。だから自分は正しい、と。

守ること自体は正しいのです。問題は、なぜそう書いてあるのかを知らないまま守っていることです。

【図3】

マニュアルの一行一行は、誰かが失敗した結果として書かれています。誰かが墜ちて、原因が調べられ、二度と繰り返さないために規則になった。私たちが読んでいるのは、先人が払った代償の要約です。

その「なぜ」を知らずに守るということは、そこに書かれた失敗の意味を受け取っていないということです。文字だけを受け取って、その裏にある人を受け取っていない。

そして実務上、決定的な差がここに出ます。マニュアルに書いていない事態は、必ず起きます。そのとき、「なぜ」を知らない人は止まります。判断の根拠を持っていないからです。

逆に「なぜ」を知っている人は、書かれていない場面でも動けます。原則から遡って考えられるからです。守ることと、判断することは、別の能力です。

誤解を避けるために

本稿は「規則を破ってよい」と言っているのではない。まったく逆である。規則は守る。そのうえで、なぜその規則があるのかを知っておくべきだ、という話をしている。

理由を知っている人ほど、規則を軽々しく破らない。代償の重さを知っているからである。危ういのは、理由を知らないまま「自分の判断」を持ち出す人のほうだ。この二つは、外から見ると似ていて、中身はまるで違う。

4. 知識が知恵に変わるとき

では、他人の失敗を受け取ったあと、それはどうなるのか。

【図4】

私は三段階あると考えています。

第一に、知識。事故報告書を読んだ。何が起きたかを知っている。ここまでは誰でも到達できます。

第二に、理解。なぜ起きたかを、自分の言葉で説明できる。他人に語れる。ここまで来る人は減ります。

第三に、知恵。その場面に自分が置かれたとき、考えるより先に手が動く。これが知恵です。

知識と知恵の差は、平時には見えません。だから多くの人が、自分は第三段階にいると思っています。差が現れるのは、追い詰められたときだけです。

5. 自動化が消えたとき

最近の飛行機は、めったに壊れません。技術が進歩し、故障は稀になりました。

ですが、ひとたび壊れると事情が変わります。システムが複雑になった分、何が起きているのかが分かりにくい。警報が連鎖し、表示が変わり、いつもの操縦感覚が失われる。パニックが起きるのは、能力が低いからではありません。状況が理解できないからです。

そして自動化が消えます。手で飛ばすしかなくなる。そのとき、知識は何の役にも立ちません。「あの事故ではこうだった」と思い出している時間がないからです。

残るのは、体に入っているものだけです。それが知恵であり、経験です。そして生死を分けるのは、ここです。

若いパイロットへ

事故報告書を読んでください。読むだけでなく、その操縦席に自分を置いてみてください。同じ計器、同じ音、同じ疲労、同じ時間の制約。そのうえで、自分ならどうしたかを考える。

そのとき、「自分ならこんな失敗はしない」と思ったら、そこで止まってください。その瞬間に、他山の石は、ただの石に戻ります。彼らは無能だったのではありません。同じ制服を着て、同じ訓練を受けた、私たちと同じ人間でした。

そして、マニュアルを読むとき「なぜ」を一つでも調べてください。一つ調べるたびに、あなたの経験は一つ増えます。飛行時間は増えないのに、経験だけが増える。こんなに安い買い物は、他にありません。

結論

経験とは飛行時間ではありません。他人が払った代償を、自分のものとして受け取った回数です。

その受け取ったものは、知識のままでは足りません。説明できるようになり、やがて考えるより先に手が動くようになったとき、それが知恵になります。

そして知恵は、事故を未然に防ぎます。UPRTとは、知識を知恵に変えるための場です。私が訓練にこだわる理由は、突き詰めればそれだけです。

数字は嘘をつかない――UPRTは『あれば良い訓練』ではない。

吉川 哲也(Tetsuya Kikkawa)

エアラインパイロット(A320)
UPRT JAPAN 代表
HIEN Aero Technologies シニアアドバイザー・テストパイロット
元航空自衛隊戦闘機操縦士(F-4・C-130)

出典・参考

  • 『詩経』小雅「鶴鳴」― 「佗山之石 可以攻玉」。中国最古の詩集。
  • 文化庁「平成16年度 国語に関する世論調査」― 「他山の石」を本来の意味で使う26.8%、誤った意味18.1%、分からない27.2%(調査対象 全国16歳以上3,000人/有効回収2,179人)。
  • Bainbridge, L. (1983). Ironies of Automation. Automatica, 19(6) ― 自動化が人間から日常的操作を奪い、異常時対処のみを残すという逆説。
  • ICAO Doc 10011(Manual on Aeroplane Upset Prevention and Recovery Training)。関連記事:遙かなる大空 Vol.119「人を育てるということ」、Vol.117「訓練だと分かっていれば、驚けない」。

※ 本稿は筆者個人の考察であり、所属する組織の見解を示すものではない。文化庁の調査はやや古いものである。図はいずれも筆者による概念整理である。

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