遙かなる大空 VOL.142
そこで何を学んだかは、記録されない
飛行時間は、能力の代わりにはならない
コルガン航空の二人は、すでに1,500時間を超えていた。
この記事の要点(約8分)
- 経験は八つの領域に分かれ、飛行時間に直接比例するのは「技術的能力」だけである。
- 1,500時間ルールを生んだコルガン航空3407便の乗員二人は、いずれもすでに1,500時間を超えていた。
- 時間を能力に変えるのは「意図的な練習」であり、学び取ろうとする姿勢である。
皆さんこんにちは。英国王立航空協会が公表した「能力の難問」という論文を紹介した記事を読みました。著者はラッセル・パターソン氏。
論旨は一行で言えます。飛行時間は、能力の代わりにはならない。
当たり前のことのようでいて、業界はずっとこの数字で人を測ってきました。私自身、18,000時間という数を名刺代わりに使っています。その数が何を保証しているのかを、今日は考えてみたいと思います。
1. 飛行時間が育てるのは、八分の一
論文は、経験を八つの領域に分けています。

【図1】
このうち、飛行時間に直接比例するのは「技術的能力」だけです。操縦の滑らかさ、手順の実行、コールアウトの自動化。繰り返せば身につきます。
二つ目の「状況への対応」は、時間ではなく運航の多様性によって決まります。山岳、国際線、複数乗務、曲技。同じ路線を千回飛んでも、この幅は広がりません。
そして残りの六つ。認知適応力、ストレスの調整、意味の理解、人間関係の協調、判断力の成熟、自己認識。
これらは、時間を重ねれば自動的に育つものではありません。曖昧な状況にさらされること、意識的に練習すること、能動的に仮説を立てて検証すること。いずれも、本人の姿勢を必要とします。
残りの六つは、時間ではなく、学び取ろうとする姿勢から育つ。
2. 二人とも、基準を満たしていた
論文が挙げている例に、私は言葉を失いました。

【図2】
2009年2月12日、コルガン航空3407便。Vol.131で、この事故がICAOのUPRT基準を生む契機になったことを書きました。機体は深刻な失速に陥り、失速警報への不適切な対応によって墜落。50人が亡くなりました。
この事故を受けて、米国では副操縦士に求められる飛行時間が250時間から1,500時間へ引き上げられました。いまも「1,500時間ルール」として知られています。
ここからが論文の指摘です。当該の乗員二人は、いずれもすでに1,500時間を超えていました。
つまり、事故を起こした二人が満たしていた水準を、事故のあとに新しい基準として定めた、ということです。時間は足りていました。足りなかったのは別のものです。
論文はこう述べています。二人は誤った知識を蓄積したままその時間に達していた。事故を防いだのは飛行時間ではなく、適切な姿勢制御の訓練だったはずだ、と。
3. 八千時間と、三千時間
もう一つ、考えさせられる例が出てきます。

【図3】
長距離路線を8,000時間飛んだ操縦士と、地方路線を3,000時間飛んだ操縦士。数字だけを並べれば、前者が二倍以上の経験を持っています。
ですが中身は違います。長距離路線は長時間の巡航と洋上の運航、時差と疲労の管理。離着陸の回数は少ない。地方路線は一日に何度も離着陸し、短い滑走路と厳しい気象を相手にする。判断を迫られる回数が、桁違いに多い。
どちらが優れているという話ではありません。違う認知の訓練場で、違う能力を育てているだけです。
そして——一本の数字で並べた瞬間に、この違いは消えます。
この記事の限界
筆者は原典の論文そのものではなく、それを紹介した記事を通して読んでいる。領域の名称や訳語は紹介記事および筆者によるものであり、原文の表現とは異なる可能性がある。
コルガン航空3407便の事故については、NTSBが訓練、運航方針、疲労、経営を含む複数の要因を認定している。本稿は当該の乗員を批判するものではまったくない。個人の資質の問題として片付けるなら、この事故から何も学べない。
また、飛行時間の基準が無意味だと述べるものでもない。客観的で、測定でき、誰にでも同じように適用できるという利点は大きい。問題は、それだけで測ろうとすることにある。
4. 時間を、能力に変えるもの
では何が必要なのか。論文はスウェーデンの心理学者アンダース・エリクソンを引いています。

【図4】
専門知識を身につけるには、単に何時間も参加するだけでなく、意図的な練習が必要である。
この対比は、そのまま操縦席に当てはまります。
同じ路線を、同じ手順で飛ぶ。問題が起きなければそれで終わり。こうして積み上がるのは、技術的能力だけです。
一方で、なぜそうなったのかを問い直す。うまくいった日も、なぜうまくいったのかを考える。他人の失敗を自分のものとして拾う。そうして初めて、ほかの七つが育ちはじめます。
Vol.124で「他山の石」について書きました。経験とは、他人の失敗を拾って自分のものにすることだと。論文の言う「意図的な練習」は、同じことを別の言葉で言っているのだと思います。
現場のパイロットとして
この記事は、自分に向けて書いています。私の18,000時間のうち、本当に能力になったのはどれだけでしょうか。
正直に言えば、何も考えずに過ごした時間はたくさんあります。同じ空港へ、同じ手順で、何事もなく降りた日。その日から何を学んだかと問われれば、答えに詰まります。飛んだ時間は、ログブックに等しく記録されます。ですが中身は等しくありません。
この連載を書きはじめてから、変わったことがあります。事故の報告書を読むようになりました。他人の失敗を調べ、自分ならどうしたかを考える。飛んでいない日に増えた経験が、たしかにあります。時間を能力に変えるとは、そういうことなのかもしれません。
結論
経験には八つの領域があり、飛行時間に直接比例するのは一つだけです。残りは、学び取ろうとする姿勢がなければ育ちません。
コルガン航空の二人は、事故のあとに定められた基準を、すでに満たしていました。足りなかったのは時間ではありません。
ログブックの数字は、そこにいた時間を示します。そこで何を学んだかは、記録されません。
数字は嘘をつかない――UPRTは『あれば良い訓練』ではない。
吉川 哲也(Tetsuya Kikkawa)
エアラインパイロット(A320)
UPRT JAPAN 代表
HIEN Aero Technologies シニアアドバイザー・テストパイロット
元航空自衛隊戦闘機操縦士(F-4・C-130)
出典・参考
- ラッセル・パターソン「能力の難問(The Competence Conundrum)」英国王立航空協会(Royal Aeronautical Society)公表。およびこれを紹介した記事 ― 経験の八つの領域、コルガン航空3407便の乗員がいずれも1,500時間を超えていたこと、長距離8,000時間と地方路線3,000時間の対比、アンダース・エリクソンの「意図的な練習」。
- NTSB「Loss of Control on Approach, Colgan Air, Inc., Operating as Continental Connection Flight 3407」NTSB/AAR-10/01 ― 2009年2月12日、機上49名と地上1名の計50名が死亡。
- 2010年航空安全・FAA拡張法(Public Law 111-216)― 副操縦士に求められる飛行時間の250時間から1,500時間への引き上げ。
- 関連記事:遙かなる大空 Vol.119「人を育てるということ」、Vol.124「他山の石」、Vol.131「その規則を、誰が書いたのか」、Vol.135「時間を買う側から、売る側へ」。
※ 筆者は原典の論文そのものではなく、それを紹介した記事を通して読んでいる。領域の名称や訳語は原文の表現と異なる可能性がある。図はいずれも筆者による整理である。
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