水素の空へ、確かな一歩
——ジェットエンジンが、100%水素で飛んだ
長年「難しい」と言われ続けた水素航空。その壁に、確かな風穴が開いた。
- Rolls-RoyceとTCSが、現代のジェットエンジンを100%水素で、離陸・巡航・着陸の全飛行サイクル運転に成功(世界初)。
- 意義は「水素が燃える」証明ではなく「産業として実行できる」段階への前進。鍵は異分野の国際協働だった。
- 脱炭素の道は水素だけではない。技術がどう変わっても、機体を安全に扱う「人」の重要性は変わらない。
2026年8月14日、航空の未来にとって、忘れてはならない発表がありました。英国の名門エンジンメーカーRolls-Royceと、インドのIT大手TCS(タタ・コンサルタンシー・サービシズ)が、現代のジェットエンジンを「100%水素」だけで運転し、離陸・巡航・着陸という全飛行サイクルを走り切ることに、世界で初めて成功したというのです。
この連載を読んでくださっている方は、覚えておられるかもしれません。以前Vol.103で、私は水素航空の「難しさ」について書きました。水素の壁に挑み、力尽きて撤退した企業の物語です。水素は、夢の燃料であると同時に、恐ろしく扱いにくい。その壁は本物です。だからこそ今日の知らせは、私にとって、ひときわ大きな意味を持っています。あの高い壁に、確かな風穴が開いた——そう感じたのです。
何が達成されたのか
今回の成功のポイントは、「100%水素」という点にあります。少し混ぜた、ではありません。純粋な水素だけで、現代のジェットエンジン(ガスタービン)を動かした。しかも、地上での短い試運転ではなく、離陸・巡航・着陸という一連の飛行サイクル全体を、模擬飛行で再現してみせたのです。使われたのは、ビジネスジェット用エンジン「Pearl 15」を改造したもの。2022年にRolls-RoyceとeasyJetが始めた4年がかりのプログラムが、ここで一つの結実を見ました。
特筆すべきは、安全性を徹底的に重視した検証だったことです。この実証には、NASAや英国の安全衛生庁(HSE)も参加しました。燃料システム、エンジン制御、水素の燃焼解析——安全に関わるあらゆる要素が、多角的に検証された。派手なデモンストレーションではなく、地に足のついた、本気の実証だったのです。
「証明したのは“水素が燃える”ことではない。“産業として実行できる”ことだ。」
なぜ水素は「難しい」のか
改めて、水素という燃料の顔を見てみましょう。魅力は明快です。燃やしても、出るのは基本的に「水」。CO2を出さない、脱炭素の切り札になりうる。再生可能エネルギーから作れば、製造から燃焼まで環境負荷の小さい「グリーン水素」にもなる。まさに、ゼロエミッション航空の夢です。
しかし、壁も高い。水素は超低温(−253℃)で扱わねばならず、燃え方が速く、燃焼の制御が難しい。貯蔵、配管、安全対策——どれもが技術的な難所です。Vol.103で書いたとおり、水素は「作る・運ぶ・扱う」のすべてが難しい。今回Rolls-RoyceとTCSが越えてみせたのは、その中でも「燃焼の制御」という最難関でした。純水素をエンジン内で、全飛行サイクルにわたって安定して燃やし続ける——それができたことの意味は、決して小さくありません。
この成功の、本当の意味
私が最も心を打たれたのは、ある関係者の言葉でした。趣旨はこうです——「これは、実験室で水素が動くことを証明したのではない。産業として、それを実行できることを示したのだ」と。科学的な実現可能性と、産業としての実行力。多くのエネルギー転換技術が止まるのは、まさにこの2つの間です。「理屈では動く」から「実際に使える」へ——今回は、その難しい橋を渡り始めた、ということなのです。
そして、それを可能にしたのが「異分野の協働」でした。英国の名門エンジンメーカーの技術と、インドのIT大手が持つデジタル技術(シミュレーションやデジタルツイン)。そこにNASAや安全当局も加わった。ハードとソフト、官と民が、垣根を越えて一つになったのです。これは、私がずっと感じてきたことを裏づけます。これからの航空技術は、もはや一社だけでは作れない。エンジン、デジタル、安全、規制——多くの専門が手を組んで、初めて前に進む。そして、日本が誇る技術力もまた、こうした国際協働の輪の中でこそ、真価を発揮できるのだと思います。
脱炭素の空へ——そして、変わらないもの
誤解のないように言えば、水素だけが答えではありません。脱炭素の空に至る道は、複数あります。水素は大型機・長距離の本命候補。電動・ハイブリッドは近距離・小型機で先行しています(Vol.101や109で書いたとおり)。そしてSAF(持続可能な航空燃料)は、今の機体にそのまま使える、すぐ効く現実的な一手です。これらの技術が競い、補い合いながら、未来の空をつくっていく。今回の水素の前進は、その多様な選択肢の一つが、大きく育った——ということなのです。
最後に、私たちパイロットにとっての意味を。新しい燃料や動力は、新しい操縦特性や、新しい緊急時対応を生みます。だから私たちは、学び続けなければならない。けれど、その一方で、決して変わらないものもあります。それは、どんな動力の機体であっても、最後にそれを安全に扱うのは「人」だということ。エンジンが水素になろうと、電気になろうと、機体を正しく操り、いざというときに立て直す——その基礎と、UPRTの重要性は、微塵も変わりません。技術が変わっても、空の安全を守る原理は、変わらないのです。
Vol.103で水素の「影」を書いた私にとって、今日その「光」を書けたことを、うれしく思います。壁は、確かに高い。けれど、人類は少しずつ、その壁を乗り越えていく。異分野が手を取り合い、安全を疎かにせず、一歩ずつ。その歩みの先に、CO2を出さずに空を舞う日が、いつか来るのかもしれません。そのとき、その新しい翼を安全に操るのは、やはり、鍛えられた人の手です。私は、その日のためにも、今日も「人を育てる」という仕事に向き合い続けます。空の未来は、技術と人の、両輪で進んでいくのですから。
数字は嘘をつかない——UPRTは『あれば良い訓練』ではない。
吉川 哲也(Tetsuya Kikkawa)
エアラインパイロット(A320)
UPRT JAPAN 合同会社 代表
HIEN Aero Technologies シニアアドバイザー・テストパイロット
元航空自衛隊戦闘機操縦士(F-4・C-130)
- TCS / Rolls-Royce 共同発表(London・Mumbai、2026-08-14):現代のガスタービンを100%水素で全飛行サイクル(離陸・巡航・着陸)運転、世界初。2022年 Rolls-Royce×easyJet 開始、2024年 TCS参画、4年プログラムの集大成。TCSは燃料システム・エンジン制御統合、水素燃焼解析、試験準備・検証、データ解析、リスク管理、詳細設計を担当。NASA・英国HSEも参画.
- 各種報道(Deccan Herald / Business Standard / Hydrogen Exchange 等、2026-08):使用エンジンは改造 Pearl 15(Bombardier Global 5500/6500用)、学びは将来のUltraFan等に活用の見込み.
- 脱炭素の複数経路(水素・電動/ハイブリッド・SAF):本連載 Vol.101・103・109。UPRT:ICAO Doc 10011.
※ 本稿は2026年9月時点の公開情報に基づく。水素航空は実証段階であり、商用化の時期・方式は今後の技術・規制・インフラの進展による。図はいずれも概念図。
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