UPRTは、どこから来たのか?前編

UPRT


遙かなる大空 VOL.156

UPRTは、どこから来たのか

前編 1990年代から2009年まで
三つの源流と、30年かかった理由。

この記事の要点(約8分)

  • 始まりは1990年代の二つの737事故。1995年に業界チームが結成され、1998年に最初の手引きが出た。
  • UPRTは事故調査、試験飛行、曲技飛行という三つの源流から育った。
  • 1998年に手引きができても、規則にはならなかった。壁を解いたのは2009年の二つの事故である。

皆さんこんにちは。今日から2回に分けて、UPRTの歴史を辿ります。

この連載で何度も書いてきた言葉ですが、そもそも、これはどこから来たのか。誰が言い出し、誰が形にし、なぜ30年もかかって義務になったのか。

調べてみると、一人の発明ではありませんでした。別々の場所で動いていた三つの流れが、ある年に一つにつながっています。

1. 始まりは、二つの737だった

【図1】

1991年3月、コロラドスプリングス。進入中の737が突然裏返り、墜落しました。25名が亡くなっています。

1994年9月、ピッツバーグ。同じく737が制御を失い、132名が亡くなりました。

いずれも方向舵の系統に不具合が疑われ、長い調査が続きました。そして業界は、ある問いに直面します。乗員は、なぜ回復できなかったのか。

1990年代半ば、米国の大手航空会社が独自の機動訓練計画を始めます。業界で初めての、体系的なアップセット回復訓練でした。他社やFAAの関係者も見学に訪れたと記録されています。

1995年、アップセット回復業界チームが結成されます。ボーイングとエアバスが共同議長を務め、航空安全財団が運営を支えました。

そして1998年6月22日、「航空機アップセット回復訓練の手引き」の初版が公開されます。版番号もつかない、最初の文書でした。

2. 三つの源流

【図2】

ここで、少し視点を引きます。UPRTという分野は、三つの別々の場所から育ってきました。

一つ目は、事故調査と業界団体です。機体メーカーと安全団体が、事故から学んだことを文書にまとめる。扱っているのは「何を教えるべきか」です。1998年の手引きが、その成果でした。

二つ目は、試験飛行と研究の世界です。研究機関と試験機関が、失速後の領域で実際に何が起きるかを飛んで確かめる。可変安定機を使った研究もここに含まれます。扱っているのは「本当は何が起きるのか」です。

三つ目は、曲技飛行と軍の教育です。全姿勢を日常としてきた人々。背面も錐揉みも、教えられる教官がもともといました。扱っているのは「どうやって教えるのか」です。

この三つは、長いあいだ別々に動いていました。文書を書く人、空力を調べる人、実際に教える人。

UPRTは、一人の発明ではない。三つの流れが、ある年に合流したものである。

3. 早すぎた訓練が、問われた

ここで、重い話をしなければなりません。

【図3】

2001年11月、ニューヨーク。離陸直後のA300が垂直尾翼を失い、墜落しました。265名が亡くなっています。

NTSBの調査は、副操縦士による方向舵の過大な操作を事故に至る要因として挙げました。そして議論は、訓練の内容そのものに及びます。

1990年代半ばに始まったあの機動訓練が、方向舵を強く使うことを是としていたのではないかという指摘が出たのです。称賛されていた訓練が、10年を経て論点になりました。

私はこの経緯を、特定の会社や個人の失敗として書くつもりはありません。書いておきたいのは、別のことです。

教え方を誤れば、訓練はかえって危険を生む。この分野では、何を教えるかと同じだけ、誰が、どの機材で、どう教えるかが問われ続けてきました。

通達が実機教官に7項目もの能力要件を課し、模擬飛行装置の教官に「有効な領域を超えて訓練を行うと負の学習になりうることを理解していること」を求めているのは、この歴史の上に立っています。

この記事の限界

本稿は公開された資料と報道をもとにした、筆者による歴史の整理である。関係者への取材は行っておらず、専門の史料研究に基づくものでもない。

特に2001年の事故に関する記述は、当時の訓練計画や、それを運用した会社・個人を批判するものではまったくない。当時の最善の判断であったことは疑いなく、本稿が扱うのは制度と知見の発展の経緯である。

また「三つの源流」という整理は筆者の見方であり、定説ではない。別の分け方もありうる。

4. なぜ30年かかったのか

【図4】

1998年に手引きができました。ところが、規則にはなりませんでした。

航空安全財団の記述によれば、当時のFAAは、その頃の模擬飛行装置が失速やアップセットの訓練に有効ではないと見ていました。そして1990年代に規則の制定は行われず、航空会社と訓練機関の自発的な取組にとどまります。

壁は三つありました。

装置の限界。失速後の領域の飛行データがそもそも存在せず、装置で再現できませんでした。実機の壁。旅客機で全姿勢の訓練はできません。別の機体が要ります。そして合意の不在。何を教えるべきかで立場が分かれ、規則に落とせませんでした。

この三つが解けるまで、UPRTは「推奨」のままでした。

そして解いたのは、技術の進歩ではありませんでした。2009年に起きた、二つの事故です。

現場のパイロットとして

1991年、私は航空自衛隊でF-4に乗っていました。全姿勢は日常でした。背面から降りてくることも、錐揉みを止めることも、訓練の一部です。

そのころ、旅客機の世界で「アップセット回復」という言葉が生まれつつあったことを、私は知りませんでした。二つの世界は、まったく交わっていなかったのです。

いま私がやろうとしていることは、結局その二つをつなぐ仕事です。30年前に交わらなかったものを、いま日本でつなぐ。歴史を調べて、自分がどこに立っているのかが少し分かりました。

前編のまとめ

始まりは1990年代、二つの737の事故でした。1995年に業界チームが結成され、1998年に最初の手引きが公開されます。

UPRTは、事故調査と、試験飛行と、曲技飛行という三つの源流から来ています。そして早すぎた訓練が、別の事故で問われもしました。

装置の限界、実機の壁、合意の不在。三つの壁を解いたのは技術ではなく、2009年の二つの事故でした。後編では、そこから日本の通達までを辿ります。

数字は嘘をつかない――UPRTは『あれば良い訓練』ではない。

吉川 哲也(Tetsuya Kikkawa)

UPRT JAPAN 代表
エアラインパイロット(A320)
HIEN Aero Technologies シニアアドバイザー・テストパイロット
元航空自衛隊戦闘機操縦士(F-4・C-130)

出典・参考

  • Flight Safety Foundation「Totally Relevant」AeroSafety World ― 1995年のアップセット回復業界チーム結成、1998年6月22日の初版公開、1995年から1998年の作業が「回復」に集中していたこと、当時のFAAが模擬飛行装置の有効性に懐疑的であったこと、1990年代に規則制定が行われなかったこと。
    Totally Relevant - Flight Safety Foundation
    Specialists updating the Airplane Upset Recovery Training Aid are ‘recalibrating’ a few technical details, its user inte...
  • FAA「Airplane Upset Recovery Training Aid Revision 2」および InFO 10010「Enhanced Upset Recovery Training」― 1998年のFAA・業界作業部会、ボーイング、エアバス、航空安全財団による共同議長、2008年10月の高高度補足と改訂第2版。
    https://www.faa.gov/sites/faa.gov/files/upset_recovery_training_aid.pdf
  • NTSB 航空事故調査報告書(ユナイテッド航空585便、USエアー427便、アメリカン航空587便)およびAviation Week の関連記事 ― 1990年代半ばの機動訓練計画の導入と、その後の議論。
  • 国土交通省航空局 通達 国空安政第1903号(令和7年11月27日制定)― 実機教官およびFSTD教官の要件。関連記事:遙かなる大空 Vol.131「その規則を、誰が書いたのか」、Vol.146「訓練が、法廷に立った」。

※ 本稿は2026年10月時点の公開情報に基づく、筆者による歴史の整理である。関係者への取材は行っていない。2001年の事故に関する記述は、当時の訓練計画やその運用者を批判するものではない。図はいずれも筆者による整理である。

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